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河川改修

雄物川放水路の効果

 放水路掘削で発生した土砂の埋立地に工業地帯が誕生、秋田運河の整備などが進んだことで、現在の秋田市の骨格がつくられました。また、洪水被害が減少し、秋田市発展の基礎が築かれました。

■秋田市発展の基礎

■洪水被害が激減し、人口が増加



■大型船等が着岸可能、貨物取扱量が増加


■放水路による洪水被害の軽減
~昭和22年7月洪水で、大きな効果を発現~



雄物川放水路

■雄物川放水路とは

秋田市の浸水被害を除去し、河口土崎港を
改善するために計画された新川。
 雄物川の河口から約2km上流までの区間は、「雄物川放水路」と呼ばれ、今から80 年ほど前に山を切り開いて造られた人工河川です。
かつての雄物川は、大きく蛇行しながら土崎港で日本海に注いでいました。
昭和の初期まで雄物川には、雄物川沿いの低い土地はいたるところで洪水により浸水し、秋田市内を流れる旭川、太平川などには雄物川の洪水が逆流し、秋田市の周辺は洪水の常襲地帯となり、市の発展を阻害する原因となっていました。
一方、雄物川の河口にあった土崎港は、川船による物資輸送の拠点として江戸時代から上流の雄勝、平鹿、仙北地方の年貢米等を集積、土崎港には、蔵が建ち並び、雄物川流域の物資はここから海運により全国の都市に運ばれました。
このように重要な役割を持つ土崎港でしたが、河口にあることから、毎年の雪解け水や洪水により、上流から流れてきた大量の土砂がたまって港の水深が浅くなり、大きな船が港に入ることができませんでした。

大正6年、日本海に注ぐ放水路に着手
 このような中、秋田県会(現在の県議会)は、明治19年に国に対して雄物川改修の要請を決議し、毎年、要請を続けておりましたが、政府の財政面や技術的な問題から計画が策定されるまで28年の歳月を費やしました。大正3年、河口から約10km上流の新屋から日本海に注ぐ新しい川、「雄物川放水路」を核とする雄物川改修事業計画が策定され、大正6年に事業が始められました。



雄物川放水路事業着工までの経緯

大正3年成案となった雄物川改修計画



放水路工事の状況

掘削工事中の放水路機関車の軌道が3本設置されている(日本海側を望む昭和11 年頃)

掘削機エキスカベータと機関車。最盛期には4台の掘削機が投入され、 1 年に約 50 ~ 80 万 m3 の土砂を掘削した。
新屋に機械工場を設置して整備が行われた。

施工途中の床固工。全ての作業は人の手で行われた。
石材は現八郎潟町面潟から採取し、馬車、鉄道により運ばれた。

施工途中の床固工と人力掘削、人力トロ運搬作業。
人力による掘削土量は1 年で10 万m3 を越えることもあった。

人力による石材トロ運搬と施工途中の床固工。
先頭のトロに載せられた石は重さ100kg を越えるものと思われる。



雄物川放水路の通水

昭和13年 4 月27日通水爆破の瞬間(写真提供 カドヤ写真館)

掘削機エキスカベーターと機関車(出典写真集あきた)


■雄物川放水路事業の概要

・雄物川放水路 延長約 2.0 ㎞
・放水路事業費 約 1,170 万円(H28 換算で約 360 億円)
・主要機械掘削機エキスカベーター4台機関車6台
・労働力延べ 200 万人
・掘削土量 約 1,490 万 m3( 東京ドーム容積の約 12 個分)
・掘削土による埋立造成面積 新屋・茨島地区 177.4ha
・放水路の通水 昭和13年4月27日

スイッチを押す三島仙台土木出張所長

通水の様子を見学に来た人々(雄物新橋右岸)



 
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