雄物川の舟運
■流域の経済発展をもたらした雄物川の舟運
江戸時代、雄物川は物資を積んだ船が多く往き交う物流路として機能していました。幕府の命を受けた河村瑞賢が西廻り航路を開設すると日本海海運が隆盛し、北前船の航行も盛んになり、土崎湊へと物資を輸送する「雄物川舟運」が繁栄を見たのです。
雄物川には 27 箇所の河港があり、下り船では主要産品である米のほか、大豆・小豆などが輸送され、上り船ではニシンや塩・砂糖・古着などが運ばれました。
横手川との合流地である角間川は流域最大の河港で、毎日 60~70 艘の川船が出入りし、氷結期の 1 ヶ月を除き通年、河港として機能していたのです。また、鵜巣、深井では陸送された本荘藩・矢島藩の年貢米を川下げし、帰り船では生活物資の輸送を行った記録が残っていますし、大久保から上流の河港では院内銀山への機械や生活物資の輸送が行われていました。
雄物川舟運が盛んになると流域で商品作物が栽培・生産される様になり、また、上方からの商品が運ばれてくる事により各地に市場が成立しました。江戸時代の記録によれば、西馬音内・湯沢・稲庭・増田・浅舞・沼館・横手・角間川・六郷・角館・大曲・刈和野などに市が立ち、それが商工業者の集落(町)へと発展したといいます。
流域に経済発展をもたらした雄物川舟運は、古くから人々の暮らしを支えていたのです。
■江戸時代の主な移出入品/文化7年(1810年)
移出品 | 数量 | 移入品 | 数量 |
---|---|---|---|
米 | 154,046石 | 木綿 | 155,852反 |
大豆、小豆 | 6,838石 | 繰綿(くりわた) | 8,057丸 |
麦 | 961石 | 綿入古手(古着) | 31,873反 |
蕎麦 | 909石 | 塩 | 118,035俵(大俵) |
菜種(なたね) | 149貫 | 砂糖 | 17,739貫 |
ゼンマイ | 24,745貫 | 身欠きニシン | 4,018,600本 |
荏粕(えかす) | 191,715貫 | 茶 | 6,565貫 |
干鰕(ほしえび) | 346,407貫 | 半切紙 | 1,139,000枚 |
ロウソク | 378貫 | ||
小松表 | 11,210枚 | ||
※荏粕は荏(エゴマ)から油をしぼった粕。 家畜の飼料として使用した。 |
※繰綿は、綿繰り車にかけ種を取り去っただけの、精製していない綿の事。 |
※参考資料/湯沢叢書 6『雄物川の河川交通』
秋田県立博物館所蔵
明治以降の舟運
■河港として栄えた角間川
明治に入ると全国で水陸の交通網が整備され、江戸時代に比べ物流が発達し、商業経済が発展しました。明治6 年には商用船の汽船が土崎港に初入港。江戸時代から流域の物流を担った雄物川舟運は、さらに盛んとなりました。
江戸時代から流域最大の河港であった角間川は、雄勝・平鹿地域の物資の集積地として繁栄。
明治中期には浜蔵や船宿が建ち並び、歓楽街も賑わったといいます。雄物川流域の代表的な船唄として江戸時代から歌われて来た「角間川船唄」の存在も、河港・角間川の繁栄を示すものと言えるでしょう。
角間川で荷下ろしされた物資は小舟や陸路で内陸部へと輸送され、河港には常時300 人程度の荷役がいて物資の運送に従事していたといいます。角間川以外の河港にも荷役が従事しており、河港は当時の物流ターミナルとして機能していたのです
■県内河川運輸並陸上輸送物品調/明治20年6月6日
河川名 | 総輸送高 | 陸上輸送 土崎港・能代港・本荘港にて陸上するもの |
河川運輸 海運にて他地方に輸送するもの |
輸送物品 |
---|---|---|---|---|
雄物川本流 | 247,061駄 | 51,297駄 | 131,225駄 | |
横手川 | 19,017 | 2,350 | 16,667 | |
皆瀬川 | 2,370 | - | 2,370 | |
岩見川 | 7,560 | 7,560 | - | |
太平川 | 16,463 | - | 16,463 | |
玉川 | 4,731 | 2,042 | 2,689 | |
南楢岡川 | 7,435 | 6,135 | 1,300 | |
淀川 | 8,563 | 4,200 | 4,363 |
※参考資料/秋田県史 資料編 明治下 奥羽鉄道関係記録集
■雄物川流域の都市別船舶数
秋田 | 河辺 | 仙北 | 平鹿 | 雄勝 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|
明治32年 | 73隻 | 613隻 | 723隻 | 212隻 | 93隻 | 1,714隻 |
明治38年 | 33 | 497 | 547 | 175 | 67 | 1,319 |
大正2年 | 23 | 414 | 431 | 128 | 41 | 1,037 |
※参考資料/湯沢叢書6『雄物川の河川交通』
■雄物川舟の種類
小廻船 | 積載量(俵) | 乗員(人) | 長さ(間) | 幅(尺) | 高さ(尺) | 底の厚さ(尺) | 帆(反) | 帆柱(本) | 明治20年/価格(円) |
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大型 | 800 | 12 | 11 | 8.5 | 3 | 3 | 12 | 11 | 12 |
500 | 9 | 9 | 6.2 | 2.6 | 2.5 | 9 | 8 | 85 | |
中型 | 400 | 8 | 8 | 6 | 2.5 | 2 | 8 | 7 | 70 |
300 | 6 | 5 | |||||||
小型 | 100 | 5 | 6 | 4 | 2 | 2 | 5 | 4 | 60 |
※備考/ 1 表は3 斗入、帆の幅は3 尺 ※参考資料/湯沢叢書6『雄物川の河川交通』
■鉄道、バスの開業と共に衰退
雄物川の舟運は明治30年代にピークを迎え、明治38 年の奥羽線奥羽線開業を機に舟運は衰退していきました。
それでも雄物川沿川の人々の交通期間として明治45 年、新波と秋田市馬口労町間を蒸汽船による一日一往復の定期運行が始まりました。
大正13 年、羽越線の開通により大内地区への諸物資は本荘・岩谷に運ばれるようになり、昭和37 年、バス路線の普及によりポンポン蒸汽の名で親しまれた新波・秋田間の定期運行客船は廃止されました。