江戸時代の河川改修
■江戸時代の改修
雄物川は、全川にわたって蛇行が著しく、古くから流域に水害をもたらしてきました。洪水のたびにその流路を変えるため米の生産や舟運にも支障を来たし、新田開発や物流のためにも洪水を軽減するための河川改修が必要でした。このため雄物川では、江戸時代からすでに洪水防御や舟運の便を図るための河道の付け替えが随所で行われました。
① 江戸時代の著名な河川改修として下流部では、万治2 年(1659) に秋田藩家老梅津半衛門利忠(三代目)が藩の許可を得て、秋田市仁井田付近を大きく蛇行して流れていた雄物川の河道を、まっすぐな流路とする掘替工事に着手。15 年の歳月をかけて付け替えました。
② 玉川合流点下流の大仙市神岡町付近では、幾度となく洪水と雄物川の流れの変化に苦しめられ、安永5 年(1776)、安永6 年(1777)、天明元年(1781) と大洪水に見舞われたことから、天明2 年(1782)6 月から8 月にかけての約2 ヶ月で延べ3 万6 千余人を動員して、新川を掘った記録が残っています。
③ 上流部では横手市雄物川町沼館付近において元和元年(1615) 秋田藩主佐竹義宣が梅津憲忠に命じて河道の掘替等の河川改修を行っています。3千両の工事費と3年の歳月を費やし、乱流していた雄物川、皆瀬川、成瀬川の流れを今日の流路へと整備しました。
これら改修によって氾濫原野が一変し、開発可能な土地となったため、周辺地域の生産基盤が安定したと言われています。
この他にも洪水常襲地帯である強首や刈和野でも河川改修が行われています。雄物川の歴史はまた、河川改修の歴史でもありました。