避難命令が出る二日位
前から近くの堤防の下から漏水していて、自宅はすでに床下浸水。「堤防はもしかしたら・・・」との不安が心を過ぎりました。
堤防の決壊を知らせるサイレンを聞き、避難先から中川原橋に駆けつけた時にはすでに、町内が濁流に呑み込まれており、又、家が流されて来るのを目の当たりにした時は頭の中が真っ白になり、今後どうなるのか、どうすればいいのか、何も考えられない状態でした。
自然がもたらした災害とはいえ、川の流れに対する護岸の優先順位 やダムの放流なども重なったとの見方もあり、幸いにして、人命の被害はありませんでしたが、わずかばかりしかない財産を失った私達にとっては、やり場の無い気持ちでした。
今、当時の事を思い起こすと、確かに水害の被害にあって、辛い事はありましたが、それよりも多くの人達のご協力やご支援を受けた事の方が甦って来ます。
避難命令が出てすぐに私達家族がお世話になった、姉の勤務先の社長や従業員の皆様、その後、町内の避難先となった第三小学校でお世話をして頂いた皆様、自宅の復旧の手伝いをして頂いた私の勤務先の職場の方々、災害復旧に来て頂いた自衛隊の皆様や、行政のご担当の方々等々、多くの人達の暖かい心で接して頂いた事が失ったものよりも、より多くのものを得ることが出来ました。
あれからすでに三十年、その後、堤防も強化され、あのような水害も無く現在に至っています。
又、堤防の側帯工事も進み、災害を危惧する意見も殆ど聞く事はありません。この側帯工事については、町内の諸先輩の方々の長い、そして地道な活動があった事を最近知る事が出来ました。
災害は一瞬にして起こりますが、堤防をされに強化する側帯工事は、三十年の年月を得て完成する事になります。水害から三十年を迎え、私達を守っているこの堤防について改めてその大切さを考えて行きたいと考えています。
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