昭和四十七年七月九日の米代川大水害から、今年で三十年を迎えた。三十年の節目といっても、周年行事のような、お祝いごとをするようなできごとではないだろう。
自然の恐るべき力の前に打ちのめされた。忌まわしく、呪わしい大災害の記憶と覚え書きをたどる日なのである。この三十年間、多くの被災者は、あの惨事を思い出すことも語り合うことも、ことさらに避けてきたように思われてならない。
三十年経った現在は、地域の居住者で水害の体験者は四割強、水害後の居住者は六割弱となっている。だから、防災の意識は自ずから変化して、住民の共通
の話題になることもめずらしくなってきている。
さて、当時の被災者は、誰もが家財が流出し、泥にまみれた我が家を再建するまで、なみなみならぬ 、苦労を背負ってきた。ひとこふたことでは言いあらわせないほどの難行苦行であった。
それでは、災害当時の地元紙や中央紙の見出しをひろいあげて、水害の惨状を写 し出してみたい。悲惨な見出しに身震いさえ覚える。
七月九日版。「ゲリラ豪雨、本県に飛来」「素波里ダム危険」、「浸水家屋一四百戸」「奥羽本線不通 、道路各地で寸断」、「藤里、二ツ井、能代、次々避難。」
十日版。「米代川氾濫、能代大被害、堤防決壊、流れる住家」、「能代山本で六千戸流失」、「まさに地獄絵図、押し寄せる濁流のうず」、「狂った川、町をのむ。もう能代に住みたくない」、「我が家の流失に号泣、学校で夜を過ごす避難民」ーまだあるがー
太古から現在でも、「災害は忘れたころにやってくる」のが真実なのだろう。人間の知恵では太刀打ちできない力である。「四十年に一度の大洪水に対応した完成堤防である。」と説明されているが、「歳月流るるごとし」の言葉を忘れてはならない。
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