当時、私は三十六才、子供三人、母、妻と六人家族。普通
の家庭生活を営んでいた。
堤防が欠壊してから、生活のリズムが、狂い始めました。第三小学校への避難生活、親戚 への移住、とにかく迷惑をかけ、大変な時期でした。木材会社に勤め、堤防下に倉庫があり、二、三日の大雨で、八日の午後から、倉庫の中へ、噴水のごとく、マンホールから溢れ出た。雨水が流れて、製品を高積み作業していた。米代川は警戒水位
も上回り、夕暮れ時は水害危険地域に入り、広報車が叫んでる。
九日の朝まで徹夜作業を続行し、翌朝八時頃、朝食のため家へ帰ったら、誰もいない。 町内役員に聞いたら、昨夜九時頃、第一次避難命令で、女性や子供を、三小へ又すぐ、十時頃、中川原地域全域、全員避難命令(消防署の資料の中から)中川原地域現場では、サイレンを使用、全員避難をしたか
警察官と協調のうえ、確認せよ。堤防上の署員は危険防止のうえ監視せよ、等を記載されてる。ようやく前夜の町内の事が確認できました。 私は、誰もいない家で仮眠、三十分位
し、十一時三十分頃、心配で堤防の上へコーヒーに少々ミルクを入れた程の濁流の色、本流は怖いほど早い、水門から下流へ五十メートルも離れているだろうか、行政の方々が三十人位
堤防下の田んぼを心配そうに見ている。私は現場の中に入ってみると六畳間位 の広さの中で、至る所から水が噴出しているのです。これは危ないと感じました。十三時十分頃現場の指示で、全員安全地帯まで上り、私は、自転車で一目散、平安閣下の橋まで逃げる。この時もうすでに、濁流が下を流れていました。十三時十四分、決壊が始まり、十三時二十三分、堤防決壊、消防署の大サイレン吹鳴、有線放送でも流される。望楼の情報で、巾十メートルに広がってる。十三時二十分、二十メートル。十三時三十七分、五十メートルに大きく本流側に口をあけ、怒濤の勢いで濁流が渦を巻き、田や畑が掘られ、工場群に流れ、抵抗のない民家に矢の如く押し寄せ、流れくる家を見て、唖然としました。中川原地区は屋根だけしか見えません。
本当の苦しみは、水が引けた翌日から始まりました。後かたづけ、水道、電気、防疫等、連日のドロ流し、道路に山と積まれた畳、布団、家財道具。これらを自衛隊出動で撤去され、また、市からおにぎり配食。
今考えると、改めて、どれも感謝の気持ちでいっぱいです。水害から立ち上がるため、社会福祉協議会から、災害資金等、当自治会でも、約九千万円借入、償還組合を作り、六年間で返済、住宅資金も、十八年返済、十年前にやっと返済し、経済的な負担から解放された感じがします。
今日は、第十九回県民防災の日です。中川原住民は「破堤は二度とあってはならない」と、願いながら堤防の強化に関心を示すため、今まで、二十五年の間、クリーンアップも続行し、せせらぎ公園の清掃、散策路千四百メートルの草刈り、コスモスロード作り川に市民を近づけ、癒しの川辺り等は、全住民が自分の生命、財産を守るための堤防愛護の
現れだと思います。
今年は、三十年の区切りに、日本河川協会の河川美化の堤防愛護により、河川功労団体として、中川原地区連合会が表彰されました。これまで協力した結果
、全住民に与えられたものです。
四十七年大水害からの計画された、森吉山ダムは、大雨洪水時の調節も出来る要素も含まれており、河口の住民に安全と安心を与えて、十年後、ダム完成時は、桜の木も大きくなり、素晴らしい春が訪れるのを望んでおります。
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