濁流にのまれた二ツ井町

二ツ井町海道上 秋林 一司(七十一歳)


 かつてない豪雨、末増有のあの大洪水の恐怖。あれから三十年を経過した今でも生々しく脳裏に焼き付き少々強い雨の日となれば嫌な記憶が。
 当日は(昭和四十七年七月七日)土曜日勤めも正午で終わる。帰宅途中土砂降りで雨足の速さ、変な胸騒ぎを感ずる。家族に今日の雨は何時もと違うぞ、と行っておる時ヒョウでも降った物凄い烈しい音での豪雨空は一変暗くなり気持ちが悪くなる。
 薄井地区は本町や駅通りより高台に位置する。そこに我が家が。堤防も頑強。河川も整備されておるので、この程度の降雨は心配ないと思っておった。その矢先、消防車が(午後三時頃)サイレンを吹聴して来た。「米代川上流、桁外れの降雨で刻々水嵩が増しておるので注意して下さい」と喚起を込めての連呼で町内を走る。停電にでもなればと早めに夕食を済ませて外に出た。バケツで水を撒く様な激しい雨。間もなく注意警報が速やかな避難を促す連呼と変わる。消防車、警察の車又、役場の広報車。交互に忙しく走り、異変を訴える。消防署前の大きなサイレンも気味悪く鳴り出す。暗くなるにつれ、雨はされに勢いを増すのみで不安が募る。この異変、これでは澄まないと察す。油断は大敵と自分に言い聞かせ、二キロ程離れておる切石に(妻の実家)にお世話になりましょうと話し合う。隣近所の人達も点々荷物を二階に運び上げて避難準備に追われておる様子が見える。反面 大丈夫でしょうと豪雨の空模様を眺めておる人も私達も片付けを終えて切石へと。これが大変です。寝たきりで手足不自由な母をこの激雨の中どうして車に乗せるべきか心配。六人家族(母、妻、子三人)みんなが力を合わせどうにか乗車は出来たが(午後六時頃)一寸先が見えぬ 激雨の中での出発です。ワイパーは全然役立たず盲目同然の運転。フロント硝子に額を押付け、勘のみでの操作。今思えば鳥肌が立つ。ノロノロ運転で無事着き家族を預かり頼み、私一人雨合羽に保安帽着用で身を固め徒歩で我が家へ戻り、再度内外の確認を済ませ、近くに住む義兄宅はどうしておるかと顔を出す。すでに前の道路は堰となり水が流れ要注意、薄井地区より百メートルは離れていないが、一段低い箇所。先に婆さんと義姉を中学校へ避難させる。間もなく義弟も来て三人で階下の荷物を二階へ全部押し上げた時すでに一メートル有余の水流で私達は避難の好機を失っていた。前後考えず、夢中での作業で、後の祭、時が経つにしたがって眠気は覚え寒さも加わる。外は真暗闇。相変わらず消防署のサイレンは鳴り止まず、はるか向かうの幹線道路(旧七号線)は高いので水浸にならず、その道路方向より荷上場地区の堤防が決壊したので今一度自分を見極め万全の作を講ずて下さいと甲高い。声が響く。私達は諦めるより外なく運を天に任せるのみ。暗闇で見えぬ 外に目を配り、これ以上水嵩が増えない事を祈るばかり。数時間は費やしたでしょう。東の方が幾分明るくなり外が見えた。とたん驚愕が走る。二階床スレスレ迄に濁水が前の道路は川と変わり急流でした。丸太や倒壊された残骸。屋根の一部に柱やドラム缶 、又ゴミの山が目の前を流れる。三人は絶体絶命。色々思い、案を。最後は大きい流失物に身を託す。助けを待つのみなれど頑張りましょうと誓う。大小様々な流失物は容赦なく住居や電柱に体当たりで目を疑う様な光景。不安は増巾す心細い。強雨も次第に弱まり峠を越す。小康状態となる。明けて八日早朝より小舟を操り救助に来てれた時は九死に一生、これで助かったと心の中で万歳と助けを求める人はまだ多く、小舟もフル稼働。急流箇所も今だ数カ所なり。旧七号道路迄は行けず、避難先は中学校二階へ、一階は水浸す。
 昨夜より避難されていた方、良かった良かったと喜ぶ。隣の人も逃げ遅れた一人、二階で淋しく限界と諦めていたよと後日話を承る。我が家に戻れたのは三日後でしたが床上数センチ。最小限の被害でしたがもう二十数センチの増水なれば私達は勿論、相当数の人が或いは家屋倒壊、流失等でその惨状は想像をはるかに超えたものと思われます。
 自然の力は侮れないものと肝に銘ずる。まち、警察署、消防署、旧建設省等の早い適切な判断で一人の犠牲者も出なかった事、不幸中の幸い万々歳でした。その後、嵩上げされ橋梁も補強されて住み良い二ツ井町となりました。



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