七月八日(土)昼過ぎに勤務先の常盤中学校を出る前にグランドを見渡した。米代川がせり上がり、田一枚を残したところまで水が迫っていた。(大丈夫かなあ)と思いつつ帰りの能代行きのバスに乗る。途中、築法師の曲がり角で堰の水が路面
を隠していた。昨日からの雨がまだ止まないので(明日、学校は大丈夫かなあ)と不安がつのった。
翌九日(日)雨が止んだのでやれやれと思ったのも束の間、昼過ぎになって「中川原の堤防が破れた!」と家の前を通 った人の話にびっくり。我が家から二百米しか離れていない日吉神社へ行ってみると、裏を流れる桧山川が大暴れしている。岸の家の土台を洗っているし、茶色く濁った川が轟々と音をたてているし見たことがないほど荒れ狂っている。
製材が井桁を組んだまま流れてくる。倉庫が丸ごと屋根を浮かせて揺れていく。牛が二頭、既に息絶えてたか、浮袋のように波に乗せられて目の前を過ぎて行った。
急いで帰って父母に報告すると、母は(こうしていられない)と着物姿にたすきをかけてふとんやら和ダンスの引出しやらを二階に運び上げた。父と二人で「ここが水をつくと能代中水浸しだよ」となだめたが、よほど恐怖心が動いたとみえて取り乱していた。
翌日は休校。被害にあった万町の先生の家へ後片付けの手伝いに行った。次の日から学校へ出勤して、寄宿舎の掃除、プールの泥の除去など働き、水害の爪跡をまじまじと見た。
一段落ついたと思った二十一日の朝、母が死んだ。死因は狭心症。享年五十六歳。水害のときの心配と無理がたたって命を縮めたのだと思うと残念でならない。後から思えば兆候を見逃していたようで、悔やんでも悔やみきれない。足に触ったときの冷たさ、腕をさすったときに「少し楽になった」と言った言葉、穏やかな顔。三十年経った今でも思い出す。こうして、昭和四十七年の能代水害は頭から離れない出来事となった。
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