昭和四十七年大洪水の記憶

能代市中川原 越前谷 美彌子 (七十六歳)


 あの日から、三十年の月日が経った。あの時、四十代だった私も今は人生七十の坂を越えて、遠い昔の出来事として振り返り見る。前々から、異常に激しい雨が降り続いても、時々ほんの少し水浸しという事は経験している地域の人達は、あれ程の大水害になるとは誰も予想しなかったと思う。私は引っ越してきて、工場を建て、家も新築したばかりだった。町のあちこちで浸水騒ぎが始まり、上流のダムが満水になり、放水が始まるという話が耳に入ってきて、それでもまだ半信半疑。備えあればで一応親類知人が畳を起こし、家具など二階に運び上げてくれた。
 九日、青空が広がったが、正午過ぎて堤防の決壊を知らせるサイレンが鳴り響いた。もうこれまでと向かいの奥さんと手を取り合って、 「家が・・・家が・・・」 と、泣きながら平安閣のところまで走った。眠られぬ 夜を親戚の家で過ごし、家に戻ってみると水は殆ど引けていたが庭は軒先まで六尺以上の流れて来た丸太が積み重なり、家の中は家具が散乱して、目を覆う惨状に又しても涙した。
 それからの毎日は、泥との闘いだった。いくら洗浄しても付着した泥は落ちず、工場の機械、材料の木材すべて使用不可能になり、何ヶ月も休業と余儀なくされた。不眠不休の努力の上、経済的にも精神的にも大打撃を受けながらも、まだ若かったから何とか戻直れたのだと思う。主人は、NHKのインタビューを受けて、 「能代は、火攻め、水攻めです」 と言った。
 私はその後、生活が立直ってから書を習うことになった時、先生が私に下さったのは「美川」という雅号だった。美彌子の「美」中川原の「川」である。その字を書くたびに思った。そして祈った。「川よ清く美しく、そして穏やかであれ」と。
 これから先、又あの時のような災害が再び起こらぬとは言えないが、今この地域の人達は何時も心を一つにして細やかに川との関わり合いを大切にして自分たちの生活を護る努力をしているのは、大変心強いことと思う。



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