三十年たった今も、悪夢の出来事として脳裏に刻み込まれているあの大洪水。「絶対に大丈夫だ」と誰もが信じていた米代川堤防。その決壊を目の前にして右往左往した我が身を断片的に綴ってみた。
○下の娘が二歳。ミルクと炊きあがっていたご飯だけを手にして妻の実家に避難した。 親の家だけでなく、弟の方も危険だったので、行き先がなく助けてもらった。明治町の山方工場付近に立って、水に浸かっていく家をただ眺めているしかなかった。辛い光景だった。
○丸太が流れて多くの家々を壊していったのだが、我が家はそれだけは免れた。堀の支柱がしっかりしていたので、衝撃に耐えることが出来たのだった。でも、建築三年にして襲ってきた災害を乗り越えることは容易でなかった。
○やっぱりどこかに油断があった。二階に家財道具を上げておれば、被害を最小限に防げたのに、まさかという気持ちがあって、殆どそのままにして家を後にしたのだった。
○水が引いて戻った時、目にしたのは、泥をかぶってひっくり返る家財道具だった。どこから手をつけたらよいのかわからず途方に暮れたのだった。ポンプを借りて家の洗濯から取りかかったが、現状を取り戻すためには多くの援助なしには不可能であった。手を貸して下さった方々の汗が忘れられない。ありがたかった。時が流れて世代交代が進みつつある現在であるが、この辛い体験が中川原地域の絆を強めている。堤防を守ろうという意識が、例えば、堤防のクリーンアップ・除草作業・コスモスロードの設置・桜の植樹となり、住民の協力が続いている。補強された堤防を前に「絶対に大丈夫」という声が聞こえてきそうであるが、油断禁物と自らに言い聞かせている。
|